東北大震災から三年

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東北-2014年4月 日本における史上最大の東北地方太平洋沖大地震から三年余。
4月6日に三陸鉄道北リアス線全線運行再開。震災丸一年後の2012年3月に仙台、松島石巻、気仙沼、南三陸町、陸前高田、大船渡、釜石、盛岡を訪ねた筆者は、再び被災地を訪問する機会を得た。
*2012年の報告レポートは⇒ 3.11津波被災地の一年後
前回の最終訪問地、盛岡まで新幹線で二時間、盛岡から更に東へ90Kmの宮古市へ山田線で二時間。宮古では、海岸沿い崖の上のホテルで二泊した。 前回松島と気仙沼で泊まったホテルと立地条件や構造がそっくりである。ただ、温泉地ではないことが、観光地としてはマイナス点であろう。 翌朝、タクシーで宮古市田老のX字型防潮堤を見学に向かう。途中、浄土ヶ浜でさっぱ船(小型船)で湾内を遊覧。
夏には、海水浴客が浜を埋めるらしいが、まだ、寒さの残るその日の観光客は、私たち四人だけ。  ⇒遊覧ヴィデオ
3年前のあの日のことを船頭さんも忘れていない。「最初の揺れが来たとき、ちょうどこの洞窟にいたんですよ。ガラガラっと石ころが落ちてきて、、、。それで、船着き場に急きょ戻り、お客さんを下してから、みんなで船を縛り付ける作業をやりました。地震から津波まで、40分くらいはありましたから。それから逃げたんです。でも、しっかり縛っていたはずの船が、全部流されて、一艘だけが、全く別のところで見つかりました。」 田老へ向かう途中、タクシーの運転手さんは、「津波の後、浄土ヶ浜のことが心配で、車は使えないので、自転車で見に来たんですよ。でも、すごかったな、休憩場や売店は全部やられてしまっていて、、、。」  *写真上をクリックすると拡大します。 
                      
現在では宮古市に合併された田老は、古くから津波の被害が多く、1611年に起きた慶長三陸地震津波では、村がほとんど全滅、1896年の明治三陸津波では、田老村(当時)の345戸が一軒残らず流され、人口2248人中83%に当たる1867人が死亡したと言う記録がある。1933年の昭和三陸津波でも、田老村の被害は、559戸中500戸が流失し、死亡・行方不明者数は人口2773人中911人(32%)、一家全滅66戸と、三陸沿岸の村々の中で死者数、死亡率ともに最悪であった。1933年から着工された防潮堤は、1958年完成、その後も増築が続けられ、1966年には、最終的な完成を見る。総延長2433m、最大幅25m、海面高さ10m X字型の巨大城壁が市街を取り囲むような壮大な防潮堤で、無敵とされていた。しかし、2011年の津波は、防潮堤の高さを優に超え市街中心部に進入、市街地中心部はほぼ全滅の被害を受けた。海側の防潮堤は500メートルに渡って倒壊。総人口4434人のうち200名近い死者行方不明者を出したが、他の地区に比べると被害者数の割合は低い。防潮堤のお蔭かもしれない。一方、立派な防潮堤があるという安心感が逃げ遅れの原因になったという見方もある。 ⇒破損した防潮堤
宮古 駅に戻らず、田老駅から電車で久慈まで。実際に乗車して、この北リアス線が観光鉄道にはなり得ないことに気が付いた。リアス式海岸が故に海岸線に沿って鉄道を敷くのは不可能。トンネルの中と湾を遠くに見ながら電車は走る。 地元の住民の移動手段として不可欠な鉄道なのだ。それにしても電車からの眺めは、私を憂鬱な気分にした。二年前と同じ風景ではないか。確かに災害ゴミの山はないし、陸地に打ち上げられた船も、ビルの屋上に上がった車も見えない。しかし、造成中としか思えない土地は、実は津波の前までは町や村の中心街だったのだ。近くに座っていた地元の婦人が話しかけてきた。連れの3人は東京から、私はイタリアから来たと告げると、「本当にようこそいらっしゃいました。」と喜びの表情。被災地に物見遊山あるいはただの好奇心で来たのでは、と言う後ろめたさを感じていた私は戸惑った。「二年前に仙台から石巻を通って釜石までの被災地を回ったのですが、今回は、連れの息子さんが私の気持ちを読み取って、前回の続きの行程を組んでくれたんです。この鉄道の全線運航再開と私の日程がうまく噛み合ったのも幸いでした」と言うと、その婦人は、ともかく、外部の人たちが来てくれるのが嬉しい、と繰り返した。「日本全体から見放されてしまった、という思いで毎日暮らしているのですよ」
日本で数少ない琥珀の産地で、採掘から加工・販売までしている唯一の場所、久慈に到着。この日は、三陸鉄道の電車に乗るのが目的だったので、昼食を済ませてから宮古まで引き返した。 宮古駅には、前日と同じくホテルのミニバスが待っていた。
                      
宮古市の市街を見慣れ始めた私は、ミニバスを運転するホテルの従業員の説明が即座に理解できるようになっていた。「ここまで、船が上がってきて、この地域の通行がしばらくの間、完全にマヒしたんですよ」「右に見えるのが市庁舎、今通っている道路は、完全に津波に被さってしまったんです」「自分の車の屋根にまず上がり、この電信柱に上って助かった人もいるんです。」「私は勤務中で、ホテルの窓から津波が押し寄せるのを見ていました。幸い家族は、高い地域に住んでいますので、無事でしたが、、、」 高台のホテルへ到着。
翌朝、同じタクシーで海岸線沿いの道路を通って久慈まで北上。電車から見た風景を間近にしながらのドライブである。運転手さんが災害直後の写真アルバムを見せながら、説明してくれるが、生々しい当時の状況が伝わってくる。この運転手さんだけではなく、直接お話を伺った被災地の方々にとって、3年前の出来事は未だ過去形では語れないのだ。
私も時々車から下りて写真を撮った。ところが、これらの写真、東京に戻ってから見ると、田老と普代村を除いて、どれがどこの写真なのか見分けがつかないのだ。普代村も宮古市田老地区と同様、巨大な防潮堤が目印であるが、15.5メートルの高さを持つ太田名部防潮堤は3.11の津波に耐え、1984年に完成した普代水門と共に普代村住民の命を救ったとされている。
         
しかし、太田名部防潮堤が普代村を大津波から救ったと美談化するのは危険であるという意見もある。「もし、3.11の震源地が少し北寄りだったら、(当然現実に起こり得る想定だが)、防潮堤も水門も役に立たなかった」との説。田老の防潮堤がチリ地震による津波を防いだという神話と同様に、津波に襲われた方向と高さが普代村に幸運に働いただけ、と言うのだ。
確かに、「水門と防潮堤が津波対策の王道」を認めてしまえば、三陸海岸沿いに巨大防潮堤を張り巡らす必要がある。気が遠くなるほどの長さ、高さ、幅の防潮堤しか、津波対策にはなり得ない。小さな湾に津波対策の巨大防潮堤を建設するとなると、その建設費用以上に生活の場所としての土地を犠牲することになるのだ。 しかし、高所への移転も、簡単に実現できる解決策ではない。津波の被害のあった海岸線に近い土地の値段は暴落し、それが売れたところで高台の新造成地の購入に足りる筈はない。個々の住民の経済力では無理であろう。もし、市町村、あるいは県や国がその費用を負担し、集落の高所への移転が実現したとして、その後、住民は何で生計を立てるのか。小規模な漁業で生活している人々は海岸沿いに住み、農民には、それなりの耕作地が必要だろう。
                      
二年前に仙台から盛岡まで海岸線沿いに被災地を見て周るまで私は、当時大々的に喧伝されていた「膨大な量の災害瓦礫のために復興工事が妨げられている」という神話を半分信じていた。しかし、実際に行ってみて、実は、問題は地盤沈下だということを知った。気仙沼港では、漁獲物の陸揚げのために大きな鉄板で船と港の地面の高さを調整しているのを見たし、今回も、船着き場に土を盛って地面を上げている光景をいくつも目にした。3年たった今もなお、「水揚げのための取りあえずの対策」が続いているのだ。
災害瓦礫が放射能汚染されていたかどうかの問題を抜きにしても、どうしてわざわざ東京や大阪、ひいては北九州にまで運んで処理する必要があったのか、私には理解できない。
もし放射能汚染されていたのなら、それを拡散するなどとんでもない話だろう。もし、汚染されていなかったのなら? 岩手県のある市長が「大阪で処理できるくらい安全な瓦礫なら、岩手で処理したい。その方が被災地の処理業者が潤い、雇用が生まれるから」と発言したそうであるが、尤もだと思う。 他の都市のごみ受け入れは、被災地の復興より、ジェネコンの利潤 に繋がったとしか思えない。そこに国の行政の悪意を見る気はないが、どれほど好意的に解釈しても、表面的な一時しのぎの対策であったとしか言えない。
                      
二年前に比べると、確かに陸に打ち上げられた大型の船も、ビルの屋根の上の車も、見かけだけ辛うじて立っている外形だけの建築物も、そして大問題だった筈の瓦礫の山は無くなっていた。何もなくなったせいで、新造成地としか思えない工事中の土地が何百Kmも延々と続いていた。クレーン車とプレハブの建物、がところどころに見えるが、一体ここはどこなのか、何の工事をしているのか、よく理解できない。地盤沈下の問題をどうするか、高所に移転するのか、元のままの場所に市街を復興するのか、その場合、津波対策として巨大防潮堤を建設するのか、あるいは他に津波対策があるのか、等々の大きな問題は、日本の国レベルで真剣に考えない限り、回答は出ないはずだ。目標が定まり、国民がみんなで力を合わせれば、東北地方の復興も夢ではない筈だ。夢? 二年前の東北旅行の後で、私は宮脇昭先生の本を何冊か読んだ。宮脇先生の津波対策は、私に大きな希望を与えた。単なる夢なのかもしれない。ただ、私が言いたいのは、宮脇対策を実現するしないに関わらず、国には、このレベルでの議論を進めてほしいのだ。それぞれ小さな組織のその場限りの対策ではなく、誰かの特定利益のためでもなく、根本的に将来を建設する方向での計画性を持った事業であってほしい。
                      
途中、小本から内陸部に入り日本三大鍾乳洞の一つとされる龍泉洞に入った。久慈では琥珀博物館を見学した後二戸駅まで。お世話になったタクシーの運転手さんと別れを告げ、新幹線で帰途についた。
                      今回は、三陸北リアス線の全線運航再開をこの目で見たかったため、前回の最終訪問地盛岡を経て宮古から久慈へと海岸線沿いに北上した。しかし東京へ向かう新幹線の中で、私は、まるで二年前の旅をそのまま続けた帰り道のような錯覚に陥った。あの時味わった無気力さと暗澹たる心境がそのまま蘇ってきた。もしかしたらもっとひどいかもしれない。なぜなら、二年間が経過してしまったことと、折角の津波対策の原料「瓦礫」が持ち去られてしまっていたから。       (文責:和田千重)