核兵器禁止条約の発効を目指して

トリノ市-2018年8月5日~12月12日
12月12日、朋・アミーチが参加しているピエモンテ州核兵器及びすべての戦争とテロ行為に反対する市民と民間及び公共団体のピエモンテ州連絡会議 は2018年最後の企画会議を開いた。7月7日の核兵器禁止条約採決一周年記念日のプレシーディオに関しては既に述べたが、それに続く今年の活動としては、カーザ・ウマニスティカ主催の広島長崎原爆追悼の夕べとイタリア大統領宛の連絡会議からの手紙を届けたことがあげられる。
★夏季休暇の期間だったためか、8月5日に行われた追悼の夕べへの参加者は少なかった。朋・アミーチからは去年と同様に会長の和田千重が原爆鎮魂歌《ある風の記憶》を独唱した。その他、他の団体からの参加者がイタリア語版「サダコ」の一部を朗読するなど、ほぼ去年と同じ形で進行したが、今後に繋がる出来事が一つ。
それは、朋・アミーチが招待したトリノ在住の山田史郎君とアントーニオマルコ・ジェンナーロ君二人が米澤鐵志氏の「ぼくは満員電車で原爆を浴びた」の一部をイタリア語に訳して朗読したことである。上記の二人と朋・アミーチとの間では、子供向けの本としてではなく米澤氏の証言をイタリア人にも幅広く伝えたいと言う気持ちが高まり、実現に向けて努力することになった。
                   
★この連絡会議は、3月4日のイタリア総選挙で「核兵器禁止条約へのイタリア調印に努力する候補者に投票しよう」というキャンペーンを行った。しかし、ピエモンテ州に限られたキャンペーンだったので選出された国会議員はごく少数、また所属政党の方針転換等もあり、それらの議員からのイタリア政府への働きかけを期待することはかなり難しい状況である。
一方、イタリア大統領の政治権力には制限があるが、マッタレッラ大統領は2016年8月5日の演説で核兵器禁止への強い願いを表明している。そこでマッタレッラ・イタリア大統領のトリノ市公式訪問が決まった後、訪問の機会を利用して、連絡会議からの嘆願書を手渡す準備が進められた。そして大統領が11月26日にポーロ・デル・ノヴェチェント訪問をした際に、ポーロ・デル・ノヴェチェント館長であるセルジョ・ソアーヴェ氏によって手渡された。
手紙の差出人団体数は89団体、朋・アミーチもそのうちの一つである。
★マッタレッラ大統領への手紙の準備を進めている時期、連絡会議の支柱の一本でああるセレーノ・レッジス研究所「100年間の平和・1918年~2018・2019」と題されたプロジェクトを開催した。この100年間が平和な時期だとは言い難いが、その中にあって、反戦運動、抵抗運動、環境保護運動は存在し続け現在に至っている事をアピールするための企画。11月2日から30日までの期間中、写真と資料の展示と討論会やフィルム上映など充実した四週間であった。
      
★12月12日
企画会議では、イタリア人が核兵器に全く無関心で現状をどのように打ち破ってイタリア人達にも核兵器の危険性を認識してもらうにはどうすればよいか、が一番の問題になった。実際に危険が起こった後では手遅れである。連絡会議に参加者には、著名な政治家や長い歴史を持つ平和団体や活発な活動をしている環境保護団体も存在している。その中にあって、朋・アミーチの出来ることは文化的活動しかないことを改めて説明した。
他の団体が企画する集会、プレシーディオ、ビラ配りなどには参加するが、朋・アミーチの強みは、直接日本から入ってくる情報である。それをイタリア語に訳して伝える事を徹底して行うことを約束した。また、2016年12月13日、ルイジ・モスカ教授を招待しての広島長崎原爆写真展の閉会イヴェントを開催したが、その時の資料を出席者たちに送った。朋・アミーチでは、その資料を基に制作したヴィデオに手を加えて、新たな核兵器禁止条約のスポット・ヴィデオの制作も検討中である。
一方他の出席者は、連絡会議の資料保存の方法を検討すべきと言う意見が出た。確かにイタリアでの核兵器禁止条約に関する情報は極めて少ない。少ない情報を整理して、簡単に紹介できるシステムを作ろうということになった。
年が明けた1月8日に新たに作戦会議を開くことを決め閉会となった。